某ARTプロジェクトメンバーからハロウィンのどまんなかの週末の夜、たまたま渋谷の街を歩いたという話を聞きました。
渋谷の交差点は、テレビで観るよりも遥かに凄い人出だったようですが、盛り上がっていると感じるより、何だか不気味な印象を持ったそうです。それは、誰もが仮装をしていて、それはそれは楽しそうなんだけれど、あくまで盛り上がっているというだけで、「場力」といったものを全く感じないのだそうです。
同じ仮装という事であれば世界のアニメファンからも有名なコミケがありますが、ハロウィンの盛り上がりと違う点は、作品があり、参加者は皆その作品に強い思いがある為に、それこそ作品の話になるとあの場面はどうだ、あのキャラクターはどうだと議論が始まるような圧倒的な場力・・・。
311以降、明らかにこうしたイベントが増え、人も多く集まるようになりましたが、そうした混沌とした感じというのはどこから起きて、どこへ向かうのでしょうか?
そんな話をしている時に勧められた本が「世界が土曜の夜の夢ならば/斎藤環」です。あえてあまり細かい内容は聞きませんでしたが、早速読んでみたいと思います!
それからもう一つ、ハロウィンやお祭りなど街のイベントで必ず出てくるゴミ問題。
渋谷ではボランティアの方が大活躍して、翌朝には街も綺麗になったそうで、それはそれで良かったと思うのですが、そもそもどうしてゴミが溢れるのでしょうか?
これは、ただ一つ、家庭のルールとか家訓に因るものが大きいと思います。
例えば、とても気持ち良い方に会う事がありますね。
格好良いとか綺麗だとか、頭が良いとか仕事が出来る、お金を持っているというのではなく、ちょっとした心遣いが出来たり、例えば食事をしていても店員さんに気持よく挨拶が出来る。
「育ちが良い」という事なのかもしれないですが、育ちが良いとはどういう事なんでしょうか?
それは、家庭にきちんとした、つまり社会とのつながりがある家訓というとちょっと古いですが(笑)、ルールがあるんだと思っています。
自宅でご飯を食べる時は「頂きます」、食べたら「美味しい!」と言えるから、外へ行っても同じ事が出来るようになる。そうした何でもない積み重ねによって気持ち良い人だと思われるようになると、不思議と気持ち良い人が周りに集まってくるようになり、結果的に社会ももっと気持ち良くなるというものです。
創造力を伸ばす事が大切だという時代、ルールがあまり多いのはどうか?という声もあるかもしれませんが、社会とのつながりをきちんと教える事、そのうえで一人ひとりが役割をしっかりと認識する事がまずなければいけません。
ハロウィンが凄いとか、色々と問題があると言ってしまえばそれまでなんですが、深掘りしてみると見えなかったものが見えてきて面白いですね。