友人が取り組んでいる鳥取藝住祭のトークセッションへ行って来ました。
スピーカーの取り組みはどれも大人だけでなく子供やお年寄りまで巻き込んだ地域の為、人を呼ぶ興味深いものでした。
そういえば、鉄腕ダッシュの番組でTOKIOが地方の技術や名産品を使って大掛かりな実験的イベントをやるっていうのがあるけれど、そうしたものにARTのチカラ、つまり、視点や考え方に変化を与え、継続的なしくみを取り入れているというものが、こうした取り組みのベースにあります。
−−−このトークショーで思った事は2つあります。
一つは、定性的な事をどう定量化するのかという事です。
こうしたコミュニティーを作る上で継続的に回る仕組みにする事は大きな課題です。
また、プロジェクト単体としては面白いけれど、全体としてのつながりが見えず、結果、盛り上がっている感がしないという事もあるかなと。
ART本来の概念からは離れてしまうかもしれませんが、成功の定義をどこに置くのかという観点は大切なのかもしれません。
例えば、りりぱっとでも意識をしている事ですが、子供教育にARTを取り入れている場所は多くあるし、価値観や自分で考えるチカラを育むなどとても大切な事だと思います。
しかし、計算が出来るとか、文章が読める、逆上がりが出来るといった大人の目からその成果がハッキリと見えるものではない為、どこで、その効果が出ているのかという定量分析が難しい。
結果、成績が全てという事につながっていってしまう。
さてさて、どうしたものか・・・
−−−そして、もう一つ思った事は、コミュニティーを作るのは環境じゃなく人だという事です。
田舎には昔の日本の姿があるという事を良く聞きます。
田舎にはコミュニティがあるとか、世代を超えた学びがあるとか、その魅力を挙げたらキリがありません。
大げさな事を言えば、家に風呂が無い、近くにスーパーが無ければ、自然とコミュニティーは生まれ易いでしょう。
しかし、それは「生まれ易い」のであって、そのコミュニティーを作っていくのは「個人」であるという事だと思うのです。
便利な街で育った人が田舎に行って自然にそこでコミュニティーの中心に居るか?と言えばそうでは無いし、便利な街で自分でコミュニティーを創り出していた人は、田舎に行ってもどんどんコミュニティーを作り出す事ができる。
−−−与えたTaskを処理していくチカラも大切です。しかし、自らTaskを創りだすチカラも大切。
そしてその両方が掛け合わる、つまり、自らTaskを創りだし、自ら解決し、続ける、チカラはもっと大切だと意識していく事が子供たちと接する日常に必要です。
◯時から作ったプリントを学習をするとか、そこにあるオモチャで遊ぶ時間、その場所で遊ぶなど、カリキュラムやルールを作る、つまり、日常を定量化していく事はもちろん大切な事です。
タイムマネジメントなど、そうした定量化された日常の中で学べる事も沢山あるし、それらはとても大事な事。
しかし、そうした定量化されたものは、「子供たちを見る」、つまりルーティーンになりがちです。保育や教育者と言われる人の多くが、「子供たちを観察する」というチカラを持っていますが、そのチカラが奪われてしまう。
だから、子供たちの意志で、「一日中紙をちぎっていた」という、「そこでどんな学びがあったんだ?」と聞かれると、一瞬「ん?」となりそうな事もきちんと評価してあげたいし、そうした事も自然に出来る環境作りはしたい。
計算や文章が読めるといった勉強が出来る子供を育てるのが、私達の目的ではないし、役割でもありません。あっ、もちろん、計算も文章を読むチカラも大切ですが、しかし、それだけに注力し過ぎてしまう大人フィルターも戒めていかなければいけないと思います。