▲ カジキのカレーマヨ焼きです。頭に描いている構図は近くのものはハッキリと、遠くのものはボンヤリと。
そんなイメージで撮ってみたんだけれども、なかなか写真というのは難しいですね。
あまり意識しなければ良いんでしょうが、こうして毎日の色んな写真を撮っていると、もっとうまく撮りたいと思ってしまう。
いいカメラ欲しいなぁ~って腕の問題ですか?
▲さて、小話コーナーです。いや、小話とは片付けられないな。
プロフに悪口書かれた事に逆上し中学生リンチというニュースがありました。
中学生でもいまや普通に持つ携帯電話。それほど遠くない将来、携帯電話を手にする子供達にとって、人事ではないなと思った事件。
技術の進化はとても早いから、携帯電話を持つのは、現時点ではまだ10何年後かもしれない子供達でも、ほんの数年したら幼稚園児を対象にした携帯端末が出来てもおかしくはないし、早々にこの不可解たるネット犯罪についても整理する必要があるなと。
携帯が普及し始めて10数年。興味深く↓の記事を読みました。
携帯電話のメールはその特性から、「常に誰かとつながっている」というこれまでになかった状態を生み出した。確かに便利ではあるが、その便利さの代償となるものはなにか。
携帯が無かった頃は学校、家などは、時間によって一旦遮断される事があったけれども、携帯が普及してからは、それこそ、時間、場所に関わらず、携帯メールで常につながっている状態が作られるようになりました。
だからこそ、ただでさえネット社会で作られ易い人間関係のひづみが出来た時にそのストレスがなかなか抜けない状態になってしまうというのは確かにあるなと思います。
直接リアルに当人同士話をする事はかなり勇気と努力が必要な事。ネット社会とリアルとを混同したまま気軽に参加できるネットに頼って、悪口を書いたり、好きな人に告白をしたりする。
おそらく中高生のケータイメール合戦がなかなか終われないのは、終わらせ方がわからないという事もあるだろう。しかも文章のみの限られたコミュニケーションは、それだけ面白くもあるが、時間もかかるし、誤解も生みやすい。誤解を解くにも、直接通話をすれば1分で終わる話が、メールであれば1時間はかかる。
現実社会ではそれだけ沢山の時間を、メールのみに投入することはできない。ということは、リアルでは何かをしながら、片手間にメールをすることになる。あるいは逆に、メールをしながら片手間に現実社会のほうの作業をすることになる。
例えば家族で食卓を囲んで話をしている最中に、よそを向いてメールを始めるような事態が起こるのだ。これは大人でもままあることだろう。親としては躾として、目の前の人をほっとらかしにして、バーチャルな人間関係に没頭するのは正しくないと諭したいところである。どちらが大事か、ということはあるにしても、礼儀として目前の人間に失礼となるような行為は慎むべきだろう。
だがおそらくそれをやる本人にとっては、メールによるコミュニケーションが、バーチャルであるという意識はない。ある意味それは正しくて、ケータイの向こうには生身の人間が居る。その人に敬意を払うことも、もちろん重要である。
リアルである人と話している時でもお構いなしにメールする事は非常識だと思っています。ただ、非常識だと片付けるのではなく、ネットリテラシーの概念から見ると、常識という概念も場合によっては変化します。
かつて、聖徳太子や足利尊氏だと教わった肖像画やイイクニつくろうと覚えた鎌倉幕府の年号は今の教科書ではすっかり変わっている時代。
僕が、もしくは同年代の方々が小学校で学んだ教育も少しずつ変化させる時が来ているのかもしれないですね。
社会におけるITインフラの再定義というか、約束事みたいなものを、ある程度ガイドライン的に構築しなければならないのかもしれない。
ただそれはそれほど難しいものではないように思う。メールのやりとりの終わらせ方を学ぶことも1つの方法だし、もっと絞り込めば、すぐに返事を返さないのは「悪」ではない、という基本的なルールを浸透させるだけで、十分な効果が望めるだろう。
常識というのは、社会のあり方によって変わるものだ。それをどこに置くのか、誰が決めるのかという問題もある。だが、礼儀正しいという日本的な美点を残しつつ、テクノロジーの恩恵に浴するという方向で社会のあり方を考えるのも、また大事なことだろう。
本来であれば、文科省はじめ各教育機関の監督省庁がガイドラインを作っていく作業が必要になりますが、それを待っている訳にもいかない。
ITだ、ネット・・・なんだか分からないからという事で放置してしまうのではなく、携帯メール、ネットを使う事でどういう変化があるのかをきちんと理解し、それに対する取組みを子供達に理解してもらう事は大切な教育かもしれません。
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